「君の胸が3つあっても僕は構わないよ」
もちろん、こうした女性たちを救うのは、医師だけではない。家族、とくにパートナーの理解は何よりも大切だ。ビジネスパートナーであり、夫でもあるアメリカ人のスティーブンさん(63才)と一緒に現れた木下彰子さん(59才)は、現在、100人の従業員を抱える語学関連の会社を経営している。乳がんが発見されたのは、99年の夏だった。 木下さんは電話をするとき、左手で子機を持ち、左手のひじあたりを右手で支えるような格好をする。
これがいつもの電話のスタイルだった。その日も同じ格好で電話をしていたところ、左の胸にできた小さなしこりに気付いた。「硬い。やばいな――」。知人の医師に相談し、検査をしたところ、やはり結果は乳がん。9月に摘出手術をした。「胸を取るということについては、正直いってあまり悲しいとか、嫌だとか思わなかった気がする。とにかくそのときは仕事の予定がつまっていて、それどころじゃなかったんですね」(木下さん)
しかしその言葉とは裏腹に、当時の日記には、「手術室に搬送されるストレッチャーの上で、涙が止まらなかった」と綴られている。手術後、抗がん剤の治療を受けながら、気丈に仕事を続けた木下さん。胸はパット入りのブラジャーを着けることで、フォローした。「あまり気にしないから、タンクトップも着ていました。ただ、ものを落としたとき(パット入りのブラが見えるから)前かがみにはなれなかったですね」
翌年、夫のスティーブンさんが、くも膜下出血で救急病院へ搬送。ICU(集中治療室)で5週間、生死の境をさまよった。現在は足が少々不自由なものの、次から次へとジョークを飛ばすほどに回復したが、倒れてからずっと医師や病院選びから始まり、リハビリにもつきあい、心身共にスティーブンさんを支えたのは木下さんだった。「ケンカもしましたよ、へりくつやわがままばっかりいうから“もう、知らない”って(笑い)」(木下さん)
乳がんの手術後、担当医から「再建をするなら2、3年は待って」といわれていた木下さんだが、再建のことは考えていなかった。しかし昨年始め、たまたまテレビで乳房再建の特集を見た。「やってみようかな」――
医師の紹介で、矢永医師を訪れた。「先生の“タンクトップが堂々と着られるわよ”という言葉で決めました」(木下さん) 夫も賛成し、こういった。「乳房がなくなっても君であることには変わりないけれど、再建することで君が幸せになるなら、僕は大賛成だ。(胸が)3つあったって構わないよ(笑い)」
木下さんは二期再建になるため、まずは手術で組織拡張器を入れ、生理食塩水を徐々に追加注入して、胸の皮膚を広げた。ある程度の大きさになったら組織拡張器を取り、代わりに人工乳房を入れる。乳輪、乳頭の手術も終え、今年2月に完成した。胸が豊かだったことから、大きさの合う人工乳房がなかった。
左右の大きさのバランスを整えるため、右の胸を少しだけ小さくした。「“いまより3センチ(トップの位置が)高くなるわよ”っていわれて、右も受けました。不安? 意外なほどなかったですね。彼女の腕を信頼していたので」(木下さん)大森さんも木下さんも口を揃えていうのが、矢永医師の患者に対する心遣いとていねいな説明だ。大森さんの診察日以外の日に病院に行って、質問をしたこともあった。それでも矢永医師はいやな顔ひとつせず、何度も答えてくれた。そして最後にはかならず「大丈夫。絶対、大丈夫だから」。と勇気づけた。
大森さんは、「こんな患者思いの先生もいたんだ」と驚いたという。一方木下さんは、「彼女の言葉は自信に満ちている。だから安心して任せられる」と話す。 実際、単に一方通行の説明をして、患者に同意を促すようなことはしないように心がけていると、矢永医師。 「初診時に乳房再建の全般的な話をまとめたしおりをお渡しします。次に、術前検査のときに乳房再建手術と麻酔に関しての説明と同意書の書類をお渡しして、あらかじめ患者さんに読んで頂きます。
その後で私が手術について、夫が麻酔について、それぞれ30分くらいずつ説明します。それでわからなかったら、もう一度同じように説明します。責任をすべて負うのは私たち。だからいかに安全な手術ができるかということを考えるのと同時に、どうやったら患者さんにきちんと伝えられるかということを最優先にしています」